グレフルペンギンdays

グレープフルーツとペンギンを愛する人の日記です。不定期。

妻と一緒に帰省したら,ジェンダー論と親戚関係の違和感の正体がわかってスッキリした話

 2022年になりました。当方,祖母が昨年9月末に他界したので,喪中です。秋田の本荘に父の実家があるのですが,祖父は2019年の秋に亡くなり,後を追うように祖母も入院と介護施設での生活を行ったり来たりしていたので,そのときがきたか…という心持ちでした。90歳まで生きたので,概ね”大往生”でしょう。

 とはいえ,ワクチン接種が間に合わなかったこと,及び行き先がかなりの閉鎖的な県であり県外者の往来が望まれなかったことから,当該葬儀に行けませんでした(葬儀は父と叔母と私の弟の3人のみの参列)。現在ではワクチンを打ったこともあり,後ろ盾を得た気持ちで(とはいえもちろんある程度の肩身の狭い思いをしながら)年末に現地を訪れました。墓参りをしたところで,言ってみれば自己満足の世界なのですが,なんとか年内に挨拶をしておきたいと思っていました。妻も連れて,父(現住所は千葉)も連れて,関東から片道600kmの行程をドライブしてきました。

 

よくしゃべり,よく訊ねる父

 父は30年来の営業職で,内面はともかく,外面(そとづら)がいい人です。いわゆる“人懐っこさ”も有していて,初対面の人がいる場など,形式張ったところでは,あれこれ訊ねては自分の引き出しからよくしゃべります。今回も,ドライバーの私を気遣う意識もあったのか,早朝3時の出発にもかかわらず一睡もせずによくしゃべっていました。

 ただ,これは昔からそうなのですが,何しろ父は空気が読めない。いや,空気が読めないというと,何か同調圧力とかそういう文脈をともなってしまう気がするので違う気がする…。相手の気持ちを推し量ることができない,といった方が妥当かもしれません。私の感覚からすれば,相手の反応次第で「あ,コイツ今興味なくて話に飽きてんな?」みたいなところがわかる気がするし,そうなってくれば話題を切り替えるとかいくらでもやりようがある気がするのですが,父はそれができないようなのです。それゆえ,とにかくつまらない話が続く。こちらに訊ねてきても,結局自分の話になってしまうので,もう“全ての道はローマに通ず”ならぬ,”全ての話題は父の昔話に通ず”です。

 これも,営業の職業病なのかな…とか考えました。とにかく手数を多く出して,何かしら気に入ってもらうきっかけ作りを第一に考えることが仕事なのだとしたら,そのマインドが父のコミュニケーションの屋台骨になっていて,それが意識を介さずに自然に出てしまっている。当然,それが良いという人もいるでしょう。私も,昔話おじいさんは嫌いではないし,昔話から当時の状況を類推するのは一種のゲームのように楽しくもあります。

 ただ問題は,引き出しが多いようで少ないんだか,感性が鈍くて引き出しが錆び付いているためか,似たような話を延々と訊ねてくるのです。聞く人によっては(父は還暦を過ぎているし)認知症を疑われるかもしれません。しかし,父は昔からそうでした。今,私が思うに,父は自分の理解の枠組み(≒固定観念)に合わせて咀嚼された話でないと理解できず記憶できないようで,逆にそれがぴったりとハマるようであればいつまでも覚えているようでした。

 そう,新しい価値観とか,他者の価値観を理解することができないようなのです。例えば今回の帰省だって,妻は義父との行動にストレスがないわけがありません。だから可能な限り,今回の目的の墓参りができれば,すぐにでも帰るつもりでした。車も自動運転機能が充実していて,600kmなんてあっという間なので,別にゆっくり滞在して疲れを取る必要のあるものでもありません。でも,自分の実家だということもあり,たぶん滞在がストレスになる人の気持ちもわからないのでしょう。「2日でも3日でもゆっくり滞在していけば良いのに」的なことを何回か提案してきました。提案自体は親切心からくるものでしょうし,それ自体は咎められることではありません。私は「住んでる家のニトリNスリープが快適すぎて(相対的に固い布団で寝ることにより疲れが倍増するので)早くおうちに帰りたいです」と父に伝えてあり,とはいえ確かに雪国の天候次第では往復の道中に困難が生じうる状態だったので,最小限の1泊にとどめるかたちで向かいました。

 

寒波の合間を縫っての秋田来訪

 年末年始は寒波に見舞われましたが,我々は29日と30日で往復したので,ラッキーなことに小康状態でした(妻は晴れ女のようで,今回も善戦???したのでしょう)。ただ前日までの寒さで,積雪路面が塩カル散布で解けたのが再度固まってガチガチで,山形道を降りてからの国道7号もさながらオフロードの様相でした。揺れるし滑るし大変。

f:id:syumichiri:20220104091936j:plain

道中の車窓から。多分鶴岡(山形県)のあたり。路面状況の悪さもさることながら,Alpenが仏壇屋になる時代そして場所であることに切なさをおぼえずにはいられない…

 雪国の民や地理学者ならわかると思いますが,雪国にも何パターンかあります。(それらは概ね降雪量(降水量)と気温である程度説明がつきますが,ここでは割愛…)

 いわゆるパンピに冬の秋田というと「かまくら」ができるレベルでの豪雪地帯を想像されますが,それは横手や阿仁のあたりのような奥羽山脈の西麓の谷(あるいは盆地)に限られます。本荘(特に父の実家がある旧本荘市の中心部)は,日本海に面しているため気温の日較差が小さく(つねに-3℃〜5℃くらいを行ったり来たり),直近の背後(東側)に急峻な山があるわけでもないため降雪量もきわめて少ない,という特徴があります。例年,冬はほとんどどんより曇っていて,湿った雪が降るか,さもなければ雨が降るかのいずれかでした。

 ところが今回行ってみるとガチガチに冷えて凍っていた形跡があり,うおおこれが寒波か…と納得しました。いつも凍らない川が凍っていたのにはビックリ。

f:id:syumichiri:20220104092221j:plain

近所の子吉川。こんなにドラスティックな(?)結氷は,物心ついて訪れるようになって25年くらいの中で,初めて見た気がする。結氷と積雪量以外は例年通りで,冬ならいつも,松岡修造でも気持ちが沈みそうな空。

 

居住者のいない冬の秋田の屋敷は,とにかく寒い

 話が地理トピックに逸れました失礼。いざ着いてみて,近所にある蕎麦屋の中華そばを食べたり,今では全国に流通するようになったとある清酒ブランドの酒造に併設されたカフェを訪れたりと,久しぶりの本荘での飲食を楽しみました。そうしていざ父の実家へ。

 小さい頃は私もその凄さがよくわからなかったのですが,父の実家は,まさに屋敷と称するのに相応しい,大きな家です。部屋の数も多いので,石油ストーブだけで10台あるような(そしてそれがオフシーズンは裏の蔵にしまってあるような)家です。城下町の内部にあるので,そこそこの(江戸時代後期くらいから?)の歴史があるようです。

 家に人が住んでいた時は,(これも雪国の方ならわかると思いますが)冬の雪国の家は暖かさの鬼でした。二重窓で外からの冷気の侵入は防がれているし,部屋の中は(灯油タンク直結の室外燃焼のストーブと8,000円くらいの石油ストーブのダブルストーブ体制で)とにかく暖かい。暖かすぎて幼少期の代謝がいい私は汗をかきまくっていました。暑いのに,祖母は「さみがったべ〜?まず茶でものめ〜」と到着早々に言ってくる懐かしい思い出。記憶力抜群で,かつ社会情勢からご近所付き合いに至るまで情報入手のスピードも早く,私はよく「うちの祖母は秋田魁新報よりも報道力が高い」と言っていましたが,チビの代謝の良さは想定外だったようですね。

 しかし,そんな祖母もあの世に行ってしまいました。今この場にあるのは,居住者のいなくなったクソデカ屋敷だけ。そんな寂しさが影響したのかわかりませんが,とにかく体感温度が低く,これまで25年の記憶の中で最も寒い冬でした。本荘で氷点下になることだってこれまであったし,それを経験してきたのにもかかわらず,氷点下行かない雨と霙雪が降りしきる本荘がこれまでで一番寒かった。

 そうか,祖母はあの年々小さくなる体で,このクソデカ屋敷を一人で切り盛りしていたのか…と,改めて気付かされました。その2年前までは祖父もいたが,祖父も晩年は認知症の傾向があったので,実質1人でやってきたのでしょう。寂しさを,そっと妻に打ち明けつつ,必要以上に大きな持ち物は人を苦しめるだけなのかもしれないな…と思いました。

 

家で色々話していると,父が色々本性を現してきた

 私にとっては通常営業の父だったのですが,妻にとっては初めての1日単位での同行だったので,客観的に色々みてくれていました。

 まず,サービス精神が旺盛であるかのようにあれこれ振る舞うが,結局相手のニーズが見えておらず,単純に自己満足であること。初めに当たり前の事実確認ですが,父は家事ができません。もちろん必要に迫られればインスタントラーメンを茹でることはできるし,洗濯機に洗剤を入れて回すことはできますが,例えばそこに健康を考えて野菜を炒めて乗せようとか,着衣時の快適性を考慮して柔軟剤を入れようとかそういう発想には至らないという点で,あくまで間に合わせ,あるいはその場しのぎの行動でしかありません。家事ができないので,当然”来客者”である私の妻が初めて訪れた際にも,何か茶を出すとかそういうことは一切しないし,できない。耐えかねて私が記憶を頼りに茶を出しても,「いやァ気が利くねェ〜」みたいなことを冗談半分に言うだけ。

 その後,湯呑みを洗おうにも,台所に立って唖然。使えそうなスポンジがないのです。私は,「食器ってどうやって洗うの???」と偏差値30くらいの質問をぶちかましたところ,父は(茶色くなった高野豆腐のようなスポンジと,かつてスポンジであっただろう物体の一部,深緑のゴワゴワした部分を示して)「これかこれを使ってるよ」と言ったのち,「まあ洗わなくても,水で流すだけでも大丈夫だよ」と言い放ってくるわけです。そりゃこの“かつてスポンジだった何か”で洗うだけで大丈夫な人であれば水で流すだけでも大丈夫でしょうよ。でも,こちとら一般的な食器洗いをしようとしてるわけで,それを大丈夫だよと言ってくる無神経さ,気配りができているようでできていない典型例ですね。

 おまけに,夜は自分の飲みたい酒と食べたいツマミを買わせて,前日からほぼ夜通し運転で睡眠不足の私を労わるテイで結局自分の欲求を満たしているだけ。私も晩酌は嫌いではないのですが,眠かった妻はその場を振り返り,「疲れを労わるなら酒飲んでないでさっさと寝かせろよって思ったよね」と的確なツッコミを入れており,確かにあれは酷かったと気付かされました。モーニングルーティーンならぬ,父のナイトルーティーンに酒は欠かせないようなので,まあそこはいいとしても,やはりサービス精神の雰囲気で父が食べたいから買ってきた鴨のパストラミを要らないと言っているのに遠慮してると受け取られて再三薦められた時はキレかけましたね。もてなしてるつもりかもしれないけど結局父は買ってきた惣菜を食べているだけであって,初めてきた客に対する配慮ではないわけです。(そして仮にそういう配慮をしようとしたとしても彼にはできないので,そうだとすればむしろ「来てもらってもなんもしてあげら

れないから近所のホテルに泊まるとかの方がいいかもしれないよ?」くらいの進言があってもよかったのでは?とさえ思うのです。帰ってきた今となっては…)

 そう,父と2人でいるときは,まあとりあえず父のやりたいようにやらせておけばいいかと思い,なんでも好きなように任せていて,それで波風が立たなかったわけですが,それが,私の妻という第三者の視点を通じてあれこれ見てみると,確かにおかしいポイントがいくつもありました。私も「〇〇しなくて大丈夫だよ」系の父の話には違和感があったのですが,それが明確になったのです。〇〇しなくて大丈夫なのではなくて,テメェがやれよという話。

 

叔母に対する父の“内弁慶”

 とはいえ,私と妻がいる場では,終始彼なりの“おもてなし”をしてくれたようです。かねてから気になっていたラーメン屋に連れて行ってご馳走してもらうなど,そういう面はよかった。父はその後10日間くらい滞在する(当記事執筆中もまだ本荘にいる)こともあり,滞在期間中に飲みたい酒を調達すべく買い物にアッシーとして付き合わされたことを差し引いても,まあよかったと思います。(現場に車はあるが誰も乗らないから一時抹消されており,徒歩圏外の買い物は私の車がないとできなかった)

f:id:syumichiri:20220106124951j:plain

「いちばん星」の「本荘鶏塩そば(大盛)」を食す。初めての来訪。コリコリした食感の親鶏(シネニグというらしい)がクセになった。美味しかった。

 ただ,問題は,叔母が現れてからの所作でした。我々3人が到着した翌日の夕方に,叔母は特急いなほ羽後本荘駅に着きました。東京からリアル遠路はるばる来て疲れている人だというのに,早速その叔母さんがコーヒーを淹れてくれたり洗い物をしてくれたり…という状況。それに加えて,父は「すまんね,いつもありがとう」くらいの一言もなく,むしろ偉そうにどかっと座っているだけ。私が叔母さんと四方山話をしているところに,父は固定観念ゴリゴリで会話に割って入ってきて,自分の理解力が低いのが問題なのに「お前の話は分かりにくい,もっと整理して話せ〜」とか「そういうところがお前のダメなところだ〜,まず気をつけれ〜」などと説教が始まるわけです。

 繰り返しになりますが,私も25年前から来ているので,もうすっかりその辺りの人間関係やコミュニケーションスタイルには慣れきっていて,むしろ偏光フィルター付きのメガネで見るような特定の成分をシャットアウトしていたので特に気にならなかったわけです。叔母もそういうところに慣れきってしまっているのか,全然苦にならないようではありました。しかし,この一連の流れを初めて目の当たりにした妻はビビりました。人が話しているところに,それを遮って偉そうに説教をする。

 幼少期から,私の母はそういう父の様子を見て「あれは人として終わっている。偉そうに口ばっかりで,全然行動が伴ってない。反面教師だね。」と言っていたこともあるし,あれは異常だ,父は(他の家庭と違って)クソだ,というふうに理解していました。

 

どうやらこれらは,我が家の固有の事象ではないらしい…

 1泊の滞在を終え,あたりも暗くなった18時頃,妻と車で帰路につきました。帰りの車の中で妻と色々振り返ったところ,どうもこの激ヤバエピソードは我が家に限った話ではなく,ジェンダー論の界隈で散々議論されてきたことらしいとわかりました。

 妻はフェミニストというわけでもありませんし,専門家でもありません。しかし,どうも生まれ育った家(母方の実家)と,父の実家の文化があまりにも違いすぎたこと,及び元来から学才に秀でていて古い価値観の環境の中では抑圧されていたことなどから,元来よりそういったことに違和感を持っていて,色々分析し,そういう文献を読み漁っていた人なのです。その妻曰く,父の叔母への説教は典型的な「マンスプレイニング」だ,父はゴリゴリの「アンコンシャス・バイアス」持ちだということを明らかにしてくれました。なんでもカタカナ語にすりゃいいってもんでもないだろ…と思っていましたが,なるほどそういう概念は欧米の文献で既に議論されていてその枠組みを持ってくる関係でどうしてもその方がスッキリ整理されるわけですね(私も昔“オルタナティブ・ツーリズム”の枠組みで修士論文を書いていたような気が…)。

eleminist.com

www.unconsciousbias-lab.org

 私は,そういった概念が,まさかの身近にいた典型的な具体例を通じてスッと理解されて,なるほど妻が以前から言っていたフェミニズム議論の一片はそういうことかとわかり,嬉しいような気がしました。また同時に,こういう現存する一種の“クソ親父”はうち固有の生物種ではなく,普遍的に存在していて,かねてから分析されてきたのだということにも気付けて,なんとなく今後は自信を持って父と相対せるなという心持ちになりました。

 もちろん,身近にそういう古生物がいたことについては恥ずかしく思ったし,第三者の妻に対しても無用な不快感を与えてしまったことに申し訳なく思いました。でも,第三者の視点を通じて,これまでの違和感が相対的に評価され正体が突き止められたことについては,たいそうスッキリした次第です。マジ感謝。

 

そういえば,個人を属性で語りたがる父

 理解の枠組みができると,個別の事象が集合の内部に位置づけられ,さらなる理解につながります。そう,学問というのは具体と抽象の行き来で深められます。私の中でも,少しずつ個別の事象が相互に結びつき体系化され,深まってきました。

 そういえば,父はよく「〇〇(属性)だから△△(特性)だ」みたいな論調で物事を語ります。以下,その具体例:

  • 女は運転が下手だ。
  • 関西人は自己主張が強い。
  • 文系は論理的な会話ができない。
  • IT関連の人は理詰めでカチカチ決まっていないと気が済まない。
  • 海外は危険だから海外で仕事をするのはやめろ。
  • 雪山(冬山)は危険だから行くな。

 私は,昔からこうした論調が大嫌いでした。ディスライクというよりヘイトのレベル。だって,その属性にかかわらず,個人の能力の程度は様々でしょうよ。感情むき出しになりますが,「何を偉そうに,テメェに何がわかるんだ,この田舎の大将が」と思っていました。特に,高校で地理に目覚めてからは,常識とされる見方や前提を疑ってかかる現実は多様であることを次々に学び,とても楽しかった,あるいは感動した記憶があります。

 また話題が地理トピックに逸れてしまいますが,例えば高校時代に感動したのは扇状地。中学校の社会科では「扇状地は乏水性のため果樹園が立地」くらいのことを学びます。確かに,上流域の急峻な河川によって運搬される粗粒の土砂が,平坦面に出た途端に運搬力が低下して堆積することによって,隙間の多い(水捌けの良い)土砂が卓越する土地が出来上がります。扇央部において河川は伏流し,それが再度地表に出る(湧出する)ような扇端部では豊富な水量を利用した水田が立地することは,高校地理で典型例として学ぶでしょう。(例えば下記)

扇状地 ( https://www.gsi.go.jp/CHIRIKYOUIKU/kawa_1-4-1-2.html より引用)

 でも扇状地のストーリーにはその先があって,例えば背後の山が高すぎて雪解け水が年中豊富だったらどうか。黒部川扇状地は背後に聳える北アルプスが急峻であり,対馬海流(暖流)による湿潤な空気が西高東低の気圧配置にともなう北西風によって北アルプスにぶつかり,世界有数の降雪量をもたらします。これが流れ下るので,扇状地とはいえほとんど伏流せず,粗粒な堆積物が卓越する扇央部でも十分な表流水が確保でき,圧巻の水田卓越景観が広がるのです。(もちろん雪解け水は冷たいのでそのままでは稲作に不向きなので,さらに諸々の工夫がなされるわけですが,そこまでの話はここでは荷が重いので,田林(1974)に詳細を譲ろうと思います…)

www.jstage.jst.go.jp

 そう,扇状地もその周囲の環境に応じて,多様なのです。「ああ,扇状地にも色々あるんだな。そしてそれらにはそれぞれに要因があって,地域の諸要因を総合的に俯瞰することで説明がつくんだな…」と感動した記憶があります。話が地理(しかも自然地理寄り)になっていますが,私にとって地理は,世界を知って諸々の多様性とそれらの因果関係を学ぶ絶好の機会でした。

 さて,話を戻しましょう。父の”個人を属性で語りたがる”傾向について。これ,かつて森元首相が「女性は話が長いから云々」と発言して問題になりましたが,まさに共通の論調ですよね。私も当時は当該ニュースを見て,「ああ古生物が古生物みを発揮して散っていったな」くらいしか思っていませんでしたが(むしろ古生物に失礼),いま振り返ればまさに私の父と同じ意識から発せられた言葉なのだと思います。当人にその発言が問題であることが今ひとつ認識されていないという点も,まさに共通でしょう。もちろん,男性と女性では脳の働きの特性に(統計的にある程度有意な)差異があり,平均的なものを見ればそういうこともあるでしょう。ただ繰り返しになりますが,女性を主語にして「女は」と発言する人に個人尊重のマインドはありません。こういう人はどの属性を挙げても同じ問題を繰り返すだけで,どうせ多かれ少なかれ「男は世帯を持って一人前だ」とか「大卒だから安定した職に就け」とか言うのでしょう。家柄や出身地や肩書き云々で人の価値が決まる時代なのであれば,もちろん属性は価値を担保するので,属性で語ることに一理あるでしょう。でも今はそういう時代ではない。そういう時代ではないことに気づかないでよく今まで生きてこられましたね…ということについては全力で称賛したいと思います。生きた化石は,学術的に有用ですからね。

 

さらに思い出される,属性で語る父とその周辺の前近代エピソード

 これらの延長で,また思い出されることがいくつか。前述では,父のやや偏見の入った発言を取り上げましたが,そういう成分を抜きにしてさらに広い視野で振り返ると,そういえば父は私をよく属性で褒めてきたことを思い出しました。

  • 部活で部長をやっているから偉い
  • 〇〇高校に入ったから偉い
  • 現役で国立大学に入ったから優秀だ
  • 日本全国津々浦々を旅して知見を広めているから偉い

 もちろん,これらはあくまで褒めてくれていることなので,ヘイトは生じませんでした。高校2年で赤点をとった時も放置プレイだったし,出来が悪いと叱られるようなことはなかったので,のびのびやれたことについては感謝しています。ただ,中学の卓球部で部長をやっていた時も,部長を務めた事実とか県大会で成績を残した点以外についてはそれほど掘り下げられなかった(興味もなかったんだろう)ことに,違和感がありました。当時は違和感というほどのものでもなかった気がしますが,それでも母が卓球のプレースタイルとか部員それぞれの個性についてよく話を聞いてくれたのと比較してしまい,父は核心部分に触れてこないしわかってないな,と思っていたのも事実です。

 現在私は予備校で教える仕事をしている関係で,“多様な生徒の伸ばし方”みたいなトピックに必然的に関心が生じ,日々ネット記事や書籍で学んでいます。そういう中で分かったこととして,生徒はやはり結果や属性を褒めるのではなく,その過程を褒めるとか,その過程を楽しんでいる姿を褒めるとかのほうが長期的に(学力に限らず)伸びていく,という点があります。そうか私は中高生時代にそこに違和感をおぼえていたのか,と納得しました。「〇〇高校に受かったから偉い」というのは「〇〇高校に落ちたら偉くない」と表裏一体であって,直接的に後者のような物言いはしないとしても,親のその感情は薄々伝わってしまうわけですよね。たまたま私は優秀だった(特に,自分のやりたいことを的確に見極めてそれを達成する点において優秀だった)ので,なんとか運よく30歳まで人生を歩んでこられましたが,もしどこかで踏み外していたら,父の論調に嫌気が差してグレていたかもしれませんね。(もとい,今も不良みたいなマインドで生きていますが…)

 また,もう一つ思い出す印象的なイベントとして,父の小学校時代からの親友(ここでは“Kさん”と称しましょう)を交えて,3人で居酒屋で飲んだ帰り道の会話があります。今から4年くらい前の話。Kさんは典型的な昭和のオジサンで,本荘の地で60年くらい純粋培養されるとこうなるのかというくらいに古風な人です。その前提認識はある程度あったし,大学院の地域調査で古風な人々とは幾度となく出会ってきたので,耐性はあったつもりでした。

 Kさんは,娘さん(私より年上)が前年に結婚したとかで,居酒屋で飲みながらその結婚に関するエピソードを色々おもしろおかしく私にしゃべってくれました。帰り道,寒い雪道を歩きながら,物寂しい雰囲気になったこともあり,ふと言ったのです。「娘も,そろそろ子どもさ作ってくれれば,嫁行った先の家でも立場ができるってもんだけどな,まだそれがねえから,俺としてもどうも気がかりでな〜」

 私はタイムスリップの能力を手に入れたのかと思いました。酔っ払っていたとはいえ,今でもその衝撃を鮮明に覚えています。これはやばい。私はその後Kさんと別れて,父と2人の帰り道に半泣きでブチギレた記憶もあります。「こんな場所では生きていけないな,こりゃ無理だわ,そりゃ年間1万人のペースで人口が減っていく県だわ」と。父も(流石に30年以上東京で仕事をしてきたこともあり)その気持ちには一定程度の理解を示してくれて,流石に救われました。

 大前提ですが,もちろん私も,秋田の人は皆が皆,そういう前近代的な人だと言いたいわけではありません。ここまでの文脈を踏まえればお分かりいただけると思うし,もし仮にそうだとすれば“ミイラ取りがミイラになる”状態ですので滑稽でしょう。ただ,少なくとも現代の秋田において相対的に権力や地位のある者は,その状態に違和感を持たずに生きているでしょうし,そうでない者は生きづらい社会であることは間違い無いでしょう。

 

帰ってきてから,タイムリーな記事を見つけた

 そういうわけで,諸々振り返りながら,千葉県内の私自身の実家と,妻の実家にも帰り,状況及び問題点を整理してスッキリしていたところに,まさにエビデンスとなるような記事を目の当たりにしました。父の故郷ということもあって,数年前からLINEの秋田魁新報(秋田のローカル紙)の配信登録をしているのですが,そこで紹介されたのが以下。

www.sakigake.jp

(上記リンク先は有料会員限定っぽいので,読めない方は,下記ならいけるかも)

u.lin.ee

 いやほんとそれ。それですよ。不寛容さ。妻と2日間過ごすだけでも,ひしひしと伝わってくる。

 そば屋やスーパーを訪れると,もちろん楽しそうに和気藹々と子ども連れの若年夫婦が歩いているのを見かけます。生きやすい若年女性もいるでしょう。ただそれは,既存のモノサシで測った場合の,いわゆる“勝ち組”に分類されるような女性たちです。既存のレールに沿って歩いていき,結婚し,子どもを作ることになんの違和感も問題意識も持たない人は,それで幸せでしょうから,あたたかく見守ってあげたいです。ただ,そういう人々が周囲のそうでない人々にそのモノサシを押し付けることは,望まれません。秋田の教育現場に立ち会ったこともないし,井戸端会議に参加したこともないので,あくまで断片的な経験でしかありませんが,どうもそういう風潮が根強いのかもしれない,それが,上記記事から推察されますね。

 

最後にふりかえる。確かに父と話していても楽しくないのだ

 終盤,かなり大きな話になりました。あくまで父の実家がある程度のつながりしかない,一種の部外者である私が言うことなので,大いに的外れかもしれません。ただ,少なくとも千葉(東京通勤圏のニュータウン)で生まれ育った私としては,違和感のある話だったし,それに根拠のある話だったので,書き留めておきたいと思った次第でした(気づけば1万字超…)。

 最後に,小さなスケールの,単純な私の気持ちの話。父と話していても,シンプルに楽しくないのです。違和感とか以前に,楽しくない。

 親戚とか親子での会話なんて,元来,大して面白いものでもないと思います。そもそも面白くするために話すわけでもないし,自分が楽しむためのものでもない。もし目的があるとするのなら,それはただ助け合いとか支え合いの関係性を築くことにほかならないでしょう。でも,妻の実家に行っておばさま方の話を聞いているほうが100倍楽しかった。これは一体なんなんだ?と分析していますが,いまだに核心に迫ることはできません。会話のテンポ感とか,掘り下げ方とか,オチの付け方とか…そういう細部が気になってきますが,本質はなんなんだろう。

 一つの考察として挙げられるのは,父のコミュニケーションは,結局,日本の男性優位社会で無意識的に形成されてきたものなのだろう,ということです。意思の疎通は仕事上がりの夜の居酒屋でなされるし,もしかすると重要な意思決定も喫煙室で行われてきたのかもしれません。(ここ17年くらい?は父もタバコを吸っていないのでわかりませんが,私が小学生の頃はよくマイルドセブンを吸っていました)

 そういう中で,父は,父なりの正しさとか正義を,身につけてきてしまったのだろうな,と思います。女は〇〇だとか,関西人は〇〇だとか。大して異文化を理解しようともしないで,一括りにして他所に追いやる。幼稚だと思いますが,そうやって自分の能力の低さを補い合ってきたのだろうと,思います。そういう時代だし,それで発展を遂げた日本社会なのだから,まあ時代の狭間に取り残されて,仕方ないなとかかわいそうだとか思う気持ちもあります。ただ,個人を個人として見なすことだけは,徹底的に理解してほしい限りです。今度はいつ話すことになるかな…その際に,また記事にまとめようと思います。