グレフルペンギンdays

グレープフルーツとペンギンを愛する人の日記です。不定期。

院生やめたら結婚できた話

※個人の感想です。

 はじめに断っておきますが,これは因果関係「院生をやめたから結婚できた」ではないし,十分条件「院生をやめる⇒(ならば)結婚できる」でもありません。ただ,そうなったケーススタディです。ただのケーススタディではありますが,現代の高等教育機関に在籍する方々のマイノリティの一例として,どこかでそういう方がいるのではないかと思って,発信する次第です…。

 世間(私の知るところ)では,『研究者の結婚』が話題になっていますが,本記事はそれに水を刺すようなつもりは毛頭ありません。(そのうち読みたいと思っています)。今回は,あくまで,私の経験を振り返るだけ。読むのは時間の損かも。

 

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 人生というのはどうなるかわからないもので,3年前は底辺的生活を送っていたが,いつの間にか結婚していた私。

 

“大学院は出会いがない”という話題

 大学院と一口にいっても,その性格はさまざまだ。だから一概に“大学院は〇〇だ!”と言い切ることはできないし,無益なことである。例えば男女比という指標一つとっても,学問分野により異なり,総じて(総数に占める女性数の比率は)文高理低だろうし,同じ学問分野でも国立と私立ではまた違うかもしれないし,地域によっても差異があるかもしれない。

 私が在籍していたのは,国立大で,偏差値帯の割に研究資金が多く割り当てられる大学の,地球科学の専攻だった。学部組織は理系で,学位も理学。前身の大学の頃から脈々と地理学教室の伝統(?)が受け継がれてきたようで,その頃から続く保守的な色彩もあった(地理学はフィールドワーク第一主義だ!とにかく足で稼げ!的な)。地理学(特に人文地理学寄り)の分野・ゼミにいたため,なんというか“ダイバーシティのすごいコミュニティ”だった。ダイバーシティがすごいというのは,以下の3点だ。

① 理系も文系も在籍
 学部あがりのガッツリ理系もいるが,他大学から入ってきた文学部地理学科とか社会学科あがりのド文系もいて,学部時代の基礎部分の話題が噛み合わないレベルだった。前者の典型は,数値データを集めることが研究だと思っているフシがあって,定性データの重要性についていまいちピンときていなかったり,定量データを弄ることができる(数学ができるorデジタルデバイスに強い…)というだけで,それができない層に対して一種の優越感を抱いていたりする,鼻持ちならない連中(言い過ぎ)。後者の典型は,逆に“論”が重要で,データを集めてばかりで論のない前者の論文や研究に対して批判的な姿勢。ちなみに私は前者だったので,(特に大学院の前半は)例に違わず鼻持ちならない奴だった。

② 留学生が多い
 海外(特に中国)の大学とコネがあるらしく,日本のサブカルが好きだからという理由でフワッと院進してきた連中と,国費留学生としてマジな実力を有して鳴り物入りで来た連中が7:3くらいの比で混在する感じ。前者は言語の壁もあるし,そもそも学部レベルでGeographyをやっていないことも多いから,これまた話が通じなくて困る。そうなってくるとなぜここに進学してきたのかがまず謎だし,組織としても教員はなぜ彼らを合格させたのかが謎だったりする(白目)。地理学の分野全体では日本人よりも留学生の方が多く,日本人だけだと定イ…ここで察しがつく。

③ 年齢層が厚い
 もちろんストレートで上がってきた連中が多いが,浪人や留年,留学,休学などで同期に4コ上の人がざらにいたりする。また,たまに社会人大学院生もいて,彼らとの交流の中でいかにストレートで上がってきた自分が井の中の蛙であるかに気づかされる。(でもこれまた中には自らが井の中の蛙であることを顧みずに社会人院生を自らのコミュニティのローカルルールで染めようとするような“ムラ社会の長”のようなやつも一部にいて,頭がわるい)

 

 こういうコミュニティに5年間いた。学部時代からの延長として考えれば,それ以上いたことになる。ダイバーシティがすごいので,そうすると本来の話題に戻るが,“出会いがない”わけではなかった。

 もちろん,都内の有名私立大とかに行けば,その100倍くらい出会いがあるんだろうが,それでも工学部(とくに物理系)の研究室とかと比べたら圧倒的に出会いがあった。そして,弊分野ではグループ調査・研究があったりもするので,必然的に“吊橋効果”とかで接近する連中もいた。私自身も一瞬その渦中にいたりしたこともあった。近頃話題の「どしたん,話聞くよ?」系の先輩もいて,メンヘラ女子数人を次々に手中に納めていた(オフレコ)。

 だから,少なくとも“大学院で出会いがないから結婚できない”わけではなかった。私の環境はむしろ,その点においては恵まれていた。

 

思えば矛盾していた大学院での生活

 大学院には,いろいろな動機で“入院”している学生がいる。幼少期から当該学問分野の研究者になりたいと思いながら,その手段(通過点)として在籍する者もいるし,就活や公務員試験に落ちた際の保険として在籍する者もいるし,学部時代にその学問の面白さに魅せられて(あまり後先を考えずに)研究したいと思ってそのまま進学してしまう者もいる。工学系でメーカーやIT関連企業に就職する者が多い専攻では,少なくとも大学院の修士課程までは進むのがある程度の前提になっていたりするが,私のいた専攻では(半分文系みたいなところもあり)大学院進学は必須ではなかった。むしろ,「学部卒(学士)で就職する方が結局優秀だよね〜」みたいな風潮はあった。(あくまで10年ほど前の話ではあるが…)

 私は,そういう中でも,「研究したい」という動機が主だった。いかにも真っ当で,純朴な青年である(自分で言うな)。研究をしていくうえで,どこかしらのアカデミック・ポストをゲットできればいいな…くらいに思っていた。ポストは減っているし,あっても任期付きだし,全体として厳しい状況にあるのは予々聞いていたのだが,幸い業界(学問分野)としては比較的ポストが多い方で,先輩方もコツコツ業績を重ねた人はそれほど苦労なく就職できていたので,私もまあそれなりにやれば行けるだろうな,と思っていた。(実際,そのように教授にも唆されていた)

 しかし,研究したいとか言っていたが,(今になって振り返るとわかるがそれは)研究したいのではなく“フィールドワークをしたい”だけだった。実際私の大学(学科や専攻)には,そういう連中は多くて,他の学部の連中からは「“旅行学科”だもんな〜いいよな〜夏休みは旅行でレポート書いて単位もらえるんでしょ?」という決まり文句があった。こちとら真面目にやっているのでそこそこ心外ではあるのだが,そういう彼らは確かに日夜実験室に籠もって実習や研究をしているので,「まあ確かにそれよりは圧倒的に楽だわ,というか逆によくそんな毎日籠もっていられるよな…信じられないわ」とか思いながら,納得していた。地理学系・地球科学系の学科においては“あるある”と思われるが,確かに野外実習フィールドワーク好きが高じた先輩や同期の中には,移動そのものが大好きで関東平野をナナメに縦断しながら毎日片道100kmを通学してその途中でアルバイトしたり地域調査したりというのもいたし,あるいは地理系のマニアックな知識が強くてフィールドワークする度に郷土資料を漁ってwikipediaにアップするというルーティンをこなすwiki師もいた。私もそういう部類で,学部時代のサークル(アカペラ)のライブが地方であるとなれば,それにかこつけてみんなで車で600km飛ばそうぜみたいなことをしていたし,長期休暇の度に青春18きっぷで日本国内をめぐっていた。でも,良くも悪くも,結局それが全てだったのだと思った。別に研究で何かを明らかにしたいというような高尚(?)な意識はほとんどなく,ただただ定期的に日常空間を離れて活動したいだけだったのだ。しかし,進学当時は,そんな事実に全く気づいていなかった。自らを客観視できていない,一種のイタい若者だったに違いない。ただ,イタい若者だったから,学部時代から4年間付き合った彼女と別れた。別に結婚を意識していたわけではないけど,その点においては結婚から一気に遠ざかった。

 それでも,修士課程の2年間は充実していた。研究室の教授や准教授のサポートで国内外各地のフィールドを訪れることができたし,そういう経験は今でも仕事や将来の生き方を考えるうえでの原点となっている。しかも,修士課程というとまだ自分の研究の方向性にある程度の幅(可能性)が残されていて,ゼミや実習を通じて興味関心を集約させていく。いわば自由度が高い。無論,博士課程の方がより自らの研究者人生のスタートになるようなよりオリジナリティの高い研究をするため,そういう意味での自由度はさらに高いのだが,なんというか「修士の方が自分の研究に掛かっているものが軽いというか少ない,だから気持ちがラク」みたいなところがあった。学問分野によってもそこはまたいろいろありそうだが,私のところはそんな雰囲気があった。「修論だし,まずは好きな切り口からやってみていいんじゃない?」みたいな感じ。同期も多く,学部時代から馴染みの顔が一緒に研究しているすがたに励まされながら,あっというまの2年間だった。大変だったけど,楽しかったという思いが強く,このまま博士の3(+α)年間も順調にいけそうだ,みたいな感覚があった。

 

博士課程での違和感の表面化

 しかし,いざ博士課程に突入してみると,状況は違った。当たり前だが,まず同期の多くが卒業・就職したことは,私にとってそれなりに大きな影響があった。親身になってくれる先輩・後輩も多く,それには救われたが,しかしそこは博士課程院生なので,やはりある程度殺伐としていて,常にお互いに業績を気にしているような感覚だった。〇〇さんはDC1通ったんだね,とか,△△さんは査読論文まだ書いてないのやばいよね,とか。互いに互いを探り合いながらマウント取り合うような感覚もあってそれが嫌だった。実際,そういうのはどんな組織でも付きものだと思うし,そういう中で大人になっていくものだと思うので,まあその程度で甘えてんじゃねえぞバーカというご指摘はもっともであるし,私自身もそう思う。実際,研究者として生きていくとすれば,博士をとる大学でのコミュニティはその後の研究者人生の大半を決定づけると言っても過言ではない。研究の方法論や問題意識が類似しているコミュニティ(≒学閥)のなかでポストが分配される傾向があるので,そのコミュニティのなかでうまく立ち回ることが必要だ。私のところは半分文系の性格があって,地方大学では半ば属人的な人事となることも少なくなかった。そりゃそうだ,下手すると数十年ともに研究・教育活動をする仲間を採用するわけだし,地方大学では同じ分野に2人や3人くらいしかいないのもざらだから,業績だけでは決められない(という話を助教から聞いたこともあった)のも肯ける。人間関係大事。

 とはいえ,やはりある程度閉鎖的なコミュニティだと,当然その仲間どうしでの公私の線引きが曖昧になってくる。お給料が(ほとんど)発生せず,それに伴って(?)コンプライアンス意識も薄い(?)大学院というコミュニティだと,結構無意識にズケズケとプライベートなことを聞いてくるような飲み会が多くなる。それきっかけで打ち解けることができるようなシャイボーイやシャイガールが多いので,ぱっと見あまり問題ないし(むしろgood),自分に勢いのあった修士の頃は全然いけたのだが,博士になるとそれがだんだん嫌になってくるのだ。古風な終身雇用制度下にある大企業組織のようで,彼女の話も根掘り葉掘り,趣味の話も根掘り葉掘り…という感じで先輩がかましてくると,段々辟易としてくるのだ。“THE☆体育会系のノリ”みたいな感じがキツかった。(余談だが,精神衛生上,大学院の外で何らかの所属コミュニティがあることは,少なくとも現代の大学院生にとってマストだと思う)。勢いのある奴は,その勢いに乗って出世していくんだろうな,と思えば世の縮図で納得がいった。しかし私には勢いがなかった。

 また,業績のための研究や,業績のための学会発表というのも,私にとってはかなり精神を削られた。私自身も業績のために研究をしているわけではないはずだったが,次第に周囲がそういう目の色になってきて,私の目は曇った。もちろん,“業績稼ぎ”というのは,それはそれで一種のゲーム感覚があって悪くなかった。自分のWebページに業績が次第に増えていく感覚は,いわばポケモンのジムバッジを一つずつ集めてストーリーを進めていく時のそれに似ていた。しかし,結局そういうモチベーションで行くような調査や学会は,大抵間に合わせのものになってしまい無益だった。学会ならせっかく議論をふっかけてくれた年長者の懇意を蔑ろにしてしまうし,調査ならば(わざわざ時間や労力を割いてくれた)協力先に対して真に失礼だった。私自身も,その空虚なイベントにだんだんと嫌気が差していた。でも,とりあえずどこかに出かけないよりは出かけたい(出かけて非日常の刺激を得たい)人間だったし,「行動しない後悔よりも行動する後悔」を標榜に掲げる活動系クソ人間だったので,そういう機会があればとりあえず行きたい,というようなことを繰り返していた。研究者というのは,当該学問に対してなんらかの小さな貢献(研究,後進育成,普及啓蒙…)を真摯に積み重ねていく存在で,その貢献の(間接的な)対価として給料をもらい生活していく,というサイクルを回せる存在だと(今は)思っているが,そのころの私は,そもそも学問に対してなんの貢献もできないただの有機物になっていた。ただただ,そういう客観的事実に一切気づけないくらい,精神が耗弱していたのだと思われる。

 それに追い討ちをかけたのが,年2回の後輩を引き連れた調査実習だった。データだけ集めて,論のない論文を書くというつまらなさ。でもそれらは業績となり,(集大成のような論文も大切だが)就職後に学生を引き連れてフィールドワークができる(かつそれを調査報告書にまとめることができる)能力を示すものになるから,やっといた方がいいという風潮。でも,自らも研究の方向性に日々苦悩するなかで,後輩も引き連れて露頭に迷わせるわけにもいかず,個々の能力を発揮させながら良好なチームワークを発揮させないといけない…。あれ,自分はなんのために今なにをやってるんだっけ。気づかぬうちに,大学に行こうとすると咳が止まらなくなり吐くレベルに達して結局外出できずに1日を終えるような状況になっていた。熱心な後輩の期待(?)に応えたいという気持ちがむしろ自分の首を締めていたっぽい。

 

“家庭教師”としての自分に支えられ…

 正確に言うと,D2の冬(年末)くらいから次第に大学に行けなくなり,年明けになるともう研究室の人と顔を合わせるのも無理になってしまった。会うと「大丈夫?」と気遣いから声をかけてくれるわけだが,もうそれが無理だった。状況的には,ヒキニートの出来上がりである。(厳密には,それでも自分のできる範囲で家庭教師を続けていて生活費一切を自分で支払えていたのでニートではないようだが,精神的には本業の大学院での研究活動がストップしている点でニートだという状況が自分を責めていた)。

 D3になってからも,PCのメールフォルダすら開けない(開くと何かの催促がきているだろうという恐れとそこからの逃避)状況が続いた。咳がひどかったので何度か通院した。基本的に大学には近づけないメンタルだったが,幸いD2の夏に大学から離れた場所に引っ越していたのでそこは一種の安心材料だった。今思えば,既にその時点で大学をやめたいサインが出ていたのかもしれない。もちろん,B3(学部3年)から5年以上住み続けた大学まで自転車で3分のアパートが手狭で不便になったのもあるが,潜在的にこの閉鎖的なコミュニティから少し距離をおきたい欲求が引越しとして具現化したのだろう。

 研究関連は一切手がつなかったし,実際考えると心拍数が上がり咳が出てしまい,自律神経がおかしくなっていたのだと思う。ただ,そういうなかでも,長年やっていた家庭教師の仕事が自分に居場所をくれるような気がして,それだけは続けられた。その頃は,引き受けられる仕事は少しでも引き受けたいと思い,複数の家庭教師派遣会社に登録した。現在ではシェアが伸びつつあるオンライン家庭教師の仕事もその頃に始めたし,訪問型家庭教師でも片道50kmの車移動も厭わず引き受けた。「16:00〜17:30で小学5年生,18:00〜20:00で中学3年生,21:00〜22:30で高校2年生」みたいなトリプルヘッダーもやっていた。車での移動は寝不足状態だと危険で,何度か事故りそうなレベルで眠かったこともあったが,少なくとも研究を離れてそういう仕事なら多分続けられるだろうなという感覚があった。

 そういう流れもあって,ふとした思い付きから,とある予備校の採用試験も受けた。ダメ元でいろいろな教科の筆記試験を受けた。いつも家庭教師では数学や英語を教えていて,たまに物理や化学をやっているレベルだったので,それら4教科と,加えて地理も受けた。筆記試験では久しぶりに高校地理の問題に触れ,新鮮な気持ちだった。(が,一切予習していなかったので結果はまずダメだろうなと思っていた)。しかし,結果は,化学で採用だった。実際,受験化学なんてn年ぶり(nは十分に大きな値)だったので,いやマズイだろうと思ったが普通に採用だった。

 これは自信につながった。仕事が入るかわからないが,もしかすると生きていけるかもしれない,と直感した。

 予備校は個別指導もあるところだったので,まずは個別指導から少しずつ仕事が入ってきた。家庭教師での経験がここで役に立って,評価が上がり,仕事が増えた。大学にはいけていない状況が続いていたが,予備校で仕事をしている間はそれを忘れることができた。大学院生という研究をしなければいけないという立場からの逃避ができ,かつ生徒たちにわずかばかりでも必要とされるという点で,一種の麻薬のような(?)感覚だった。予備校講師として生きていけるかは不透明だった(仕事量がまだ少なかった)ので,予備校講師はあくまで仮の姿という感じだった。でももう研究の道にすっかり戻るというのも無理だろうと感づいていたので,後期は休学の手続きをとった。教授は親身に(そういう休学関連の)情報提供や提案をしてくれたし,基本的に個人を尊重してくれる人だったので,そこは死ぬほど救われた。

 休学を選択したことは,(社会的立場や先行き不安は変わらないものの)自分にとってプラスの変化をもたらした。ずっと続けている家庭教師や予備校の仕事を続けてもいいのだ,なにも後ろめたく感じる必要はないのだ,という見えない後ろ盾を得た感じだった。思えば学部4年の卒論の頃から,研究室やサークルに「すみません,(生活費を稼ぐための)アルバイトがあるので…」と絶えず言い訳をしていた。実際のところ生活費を稼がないと大学通えないし,何なら研究(フィールドワーク)もできないので,アルバイトしないといけないのは事実だったが,それが習慣化していて実態とかけ離れていたことに,その時気づいた。ずっと,“アルバイトしないといけない”というより,“アルバイトしたい(けどそんな不純な自分でごめんなさい)”という気持ちだったのだ。でも「塾講師や家庭教師で今後もずっと生きていくわけではないし,何ならそういうふうにして大学を中退して“闇落ち”していくような人生は嫌だし…」という一種のプライドが邪魔をしていて,言い訳の形になっていたのだろうと思った。

 予備校の仕事が波に乗ってきて,一般的な20代会社員の収入に並ぶようになってからは,むしろその劣等感がすっかり消え去り,むしろ“予備校講師”というのが水戸黄門の印籠のような作用をしてくれるようになった。自分の人生に自信が出てきた。予備校講師が印籠になっているのは,おそらく林修氏をはじめとする優秀な講師たちが世間の評価を引き上げてくれたからだと思う。そこはマジ感謝。

 

ある女性との再会

 時が若干前後するが,その年の夏に,ある女性との再会をした。現在の妻である。

 …と言っても,そんなドラマチックなものではなく,定期的に集まっていた高校の合唱部の同期での夏の旅行で会っただけである。それまでにも年に数回飲み会があったし,旅行もあったので,“劇的なn年ぶりの再会!”とかではない。ただ,その時のわずかな会話とか雰囲気とかがちょっと気になって,後日連絡するようになった,という感じだった。そういう思いを抱いたのも,やはりある程度自分の生き方に自信が出てきたからだと,今振り返ると改めて思える。よく「他人は自分の鏡」的なことを聞くが,まさにそういうことらしい。そもそもそれまでの数年間は,自己肯定感が低いためか,他人に対して興味を持つことも少なかった。興味がないというより,「おそらく他人は私に対して興味がないだろうから,私がその他人に興味を持っても一方的だし不適当だよな」と思っていたというのが的確かもしれない。そういう状態だから,興味を持ったとしても,薄らとして表面的なものだった。だけど,この時はそうではなかった。

 “後日連絡するようになった”と先に述べたが,手帳を見返してみると連絡したのは気になってから1ヶ月以上経ったのちのことであった。一過性のものであろうと思っていたし,例によって連絡されても相手も嫌かもしれないし,こちらとしてもそれはそれで不審に思われ傷つくのも嫌だな…という思いから,ウルトラ慎重になっていたのだと思われる。しかも,高校の部活の同期ゆえに,今後も継続的に会うであろうコミュニティで禍根を残すのは避けたいから,ほんのちょっと遊んですぐ別れるというのはマズイと思っていた。自分は飽きっぽいから大学のサークルや大学院でも前科があったし,今回もどうせそういう感じかなと思っていた。しかし,1ヶ月経ってもやっぱり気になっていた。気になっていたから,何らかの口実を作って連絡したいと思い,先方が興味ありそうな映画を見ないかと提案した。私自身そんなに興味を持っていた映画ではなかったが,そういう時は不思議と興味が出ているものである(自己暗示乙)。誘ったらOKということで,それから連絡が続いた。何回か近所に飲みにいったし,その度に今まで鬱っぽかった自分が嘘のように楽しかった。12月に付き合い始めた。

 年明けには,予備校の次年度の出講依頼がきた。週6日の出講だった。これは生きていけると確信した。

 

そして,大学院をやめた

 2月頃だっただろうか。大学院での研究や在籍継続の可否について,お世話になっていた教授と話した。気が重く,大学にはなかなか赴けなかったので,市内のショッピングモールのスタバで話した。教授は,そういうところに理解があって今でも大変感謝している。これまでの状況や,これからのこと,そして休学期間中にさらに引越していたことなど。1時間弱ではあったが,いろいろ話した。研究を続けられるメンタルでないこと,それに代わって生きていくための仕事を得たこと。

 そこまで話して,ああ自分は研究したいわけではなかったんだな…と改めて認めることができた。それまで心の片隅にあった「院生たるもの研究が全てなのだから,自分は研究をしたいのだ。研究をしたいのでなければ自分は底辺ダメ人間だ」とずっと自己暗示をかけていたのだと気づいた。まだ学部3年や4年の時の自分が大学院に行きたかったのも,そして一貫してフィールドワークしたかったのも,(これまでも触れてきたが)これまで過ごしてきた日常からの逃避欲求の現れであり,自分の可能性をさらに広げたいという一種のモラトリアムの延長戦だったのだと思われた。そう考えると,長い延長戦だった。心の重荷が少し降りたので,自分の未熟さに気づくことができた,といったところであろうか。

 その後,大学には数回訪れ,奨学金返済の手続きやら退学手続きを済ませた。延べ9年間在籍していた大学だが,去ると決まれば手続きはあっという間で,呆気ないものだった。研究室の方々には会わせる顔が無かったので,未だに「最後に会ったのはD2の冬」みたいな状況の人が多い。彼らにあっていなかったら自分の中で形成され得なかった人格もあるし,視野も広がったし,楽しい時間を過ごさせてもらったので感謝が尽きないが,とはいえお互いにもう会っても得はないだろうし,今後も会わないだろうと思っている。実際,(経済的側面が全てではないし研究によって満たされる側面もあると思うから一概にはいえないが)おそらくポスドクでやっている先輩や同期よりも私の方が収入が多いだろうし,いわゆる“ドロップアウト”したお前がどの面下げてきたんだ?みたいな雰囲気になりかねないだろうと思う。

 

結婚まではあっという間

 年度が変わり,生活スタイルもグッと朝型になってしまった。それまで毎日のようにやっていた家庭教師も2月や3月には大半の生徒の進路が決まっていたので,ほとんどなくなった。実際,家庭教師を続けるよりも予備校で仕事をしている方が(勤務時間や収入面で)大いに安定するし,1人1人を手取り足取り面倒見なくていいというのが性に合っていた。私自身,幼少期から何かしらを手取り足取り教わった経験が一切なく,自分で見て考えて繰り返していつの間にか身につける,というサイクルの人間だったので,手取り足取りやる家庭教師はすっかり億劫ではあった。もちろん,今の時代に“授業したっきりアフターサポートもしない”とかそういう類の予備校はやっていけないので,100%放任というわけでもなく,質問にくる生徒には(家庭教師仕込みの感じで)とことん付き合うわけであるが。

 休学期間中に,予備校校舎(あるいは都内)へのアクセスの良いところに引越したことも功を奏し,彼女(現妻)の家にも週1回くらいのペースで訪れた。そういう中で,いつだったかははっきり覚えていないが,もう完全に結婚を意識し,時期も検討した。夏には両親に話したし,11月・12月には両家に挨拶にも訪れた。時が前後するが,10月には現居に引越し,半同棲状態であった。そして,年明けに入籍した。

 

ケーススタディとしての私の人生

 以上,いろいろ振り返ったが,そのまとめをする。たぶん,院生をやめたから結婚できたというより,院生をやめるという適切な判断を下せるようになっていて変に何かに媚び諂わない性格を確立できていたから,ほどなく結婚しているのだと思う。もちろん,元来より持ち合わせていた“本質を見極める力”も重要な働きをしたと思う(これは親や環境に感謝)。妻にも媚び諂わないし,だからこそ妻も媚び諂わずにいてくれる。結婚は人生の一大イベントみたいな風潮があるが,私としては一切そんな意識がなく,何だかスーッと収まるべきところに収まった,という感じである。得るもの多くて失うものが少ないので,まさに合理的である。世間に散見されるカネやバエだけのハリボテ結婚生活(?)とならずに済んだし,孤独死の未来もしばらくはなさそうだ。

 何が教訓かとか,そういう話をするつもりはないし,そういう話は好きではないが,もしあえて何か指摘するとすれば,「自立(自律)ってやっぱ大事だよね」ということである。結婚とは“助け合い”だ,みたいなことをよく聞くが,“助け合い”の意味を勘違いしている人が少なくないのかな,と思うことがある。助け合う前提で,自分ができないことを相手に求めてしまう人は,なかなか厳しいのかな,と思う。単純な例でいえば,料理(自炊)が苦手な人が結婚相手に毎日の手作り料理を求めてしまうと,当人はそもそもその手間がわからないから無神経になりがちだし,料理する側も尽くす意識から見返りや不満を抱くことが多いのではないか。一人で生きて行けるからこそ,二人でも生きていける。一人で生きていけるからこそ,周囲の支えのありがたみに気付ける。少なくとも私は,最底辺生活を経てその感覚を持つことができた。

 

 それにしても,なぜ妻に興味を持ったのだろうか。私は不思議でよく考える。そして目の前の妻を見てみる。そうかなるほど,妻はペンギンに似ていて,微かにグレープフルーツの香りがした。